洛南の椿寺~浄安寺

 久御山町・佐山地域には、前回紹介した雙栗神社とともに、椿で知られる浄安寺があります。

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 境内には、248種類もの椿を数え、寺の名を冠した「浄安寺椿」は、門外不出とされ、ここでしか見ることはできません。

 と言っても、敷居が高いというわけではなく、私のような一見さんにも親切にご案内いただき、昔ながらの地元のお寺さんという雰囲気のあるところです。

 今回は、この洛南の椿寺と呼ばれる「浄安寺」をご紹介します。

1 浄安寺の椿たち

 寺伝によれば、もともとは、1053年に創建された「浄福寺」というお寺を起源とします。

 この「浄福寺」は、雙栗神社が石清水八幡宮の分霊を祀り、椏本八幡宮と呼ばれていた時代には、その神宮寺となっていましたが、次第に衰微していったようです。

 天正元年(1573年)になって、平等院の玄誉徹公上人によって再興され、正親町天皇(在位1557~1586年)により、浄安寺の寺号と勅額を賜ったとされます。

 寺号については、「浄福寺」の「浄」と、同じく神宮寺であった「安楽寺」の「安」を引き継いだらしいと、お寺の方にお聞きしました。

 庫裏の軒下の縁台に、椿の一輪挿しが飾られ、来訪者を迎えてくれていました。

 これだけでも、たくさんの種類の椿があることがわかります。今見頃の花を教えてくれているようですね。

 「椿寺」と呼ばれるだけあって、境内には、椿が所狭しと植えられています。

 このお寺オリジナルの「浄安寺椿」は昔からあったのでしょうが、先代のご住職と、とりわけ奥さんが椿好きで、各所の椿の枝を挿し木で増やしていくうちに、椿寺と言われるほどになったということです。

 寺にある椿のリストには、「小式部」(長福寺)や「貴椿」(法然院)など、原木以外ではお目にかかれないようなものもあります。

 おそらく、いろいろな伝手をたどられて、枝を譲り受けられたのだろうと思います。

  

 境内を回り、椿を楽しんでいましたが、「浄安寺椿」がどこにあるかわかりません。

 呼び鈴を押しますと、現住職の奥様が出てこられ、案内していただきました。

 「浄安寺椿」は、本堂の裏手の狭い通り道にありましたので、これは案内いただかないと見つけるのは難しいかもしれませんね。

 開花が遅いらしく、「まだ咲いていないかも」と仰られていましたが、小柄な白い八重咲の花がちらほらと見えました。

 一輪の派手さはありませんが、満開時には見応えがあると聞きましたので、おそらく多くの花が一斉に咲きそろう姿が愛されてきたのだろうと思いました。

2 茶室「聞名庵」

 ネットの情報で、松花堂昭乗が好んだ手水鉢があるとあったので、あわせてお聞きすると、庫裏の奥にある茶室と中庭に案内いただきました。

 茶室には、先代住職の奥様の妹さんがおられ、手水鉢以外にも、お寺の縁起など、いろいろとお話していただきました。

橋桁に使われていた石を利用した手水鉢と聞きました。

 この茶室は、「聞名庵」といい、京都市長を務めた第8代京都市長の安田耕之助(1883年~1944年)の別邸内にあったものを昭和52年に移されたそうです。

 中庭の燈籠や井戸もあわせて移されたとのこと。

 大きな白侘助が枝を広げ、紅侘助も傍らに植えられていました。

 もう花は終わっていましたが、少し前まで茶室から楽しんでおられたということです。

 縁側には、椿花が飾られ、つばきに囲まれて暮らされている様子でした。

3 本堂の椿の一輪挿し

 再び本堂へと戻ると、今、涅槃図を開帳しており、ご住職がお話しいただけるとのことで、喜んで、堂内に上がらせてもらいました。

 お堂には。様々な品種の一輪挿しが並んでいます。

 花器も、備前信楽唐津など、各地の焼物を収集されたとのこと。

 先代の頃から始められたこの椿のお供えは、今も、毎年の行事として続けられているのですね。

 涅槃図の開帳は、3月いっぱいまでということで、ちょうどタイミングが合いました。

 涅槃図に描かれているものの意味や教えをはじめ、お寺の椿に関わるお話を聞き、住職が撮影された椿のアルバムも見せていただきました。

 ほかにも、いろいろと興味深いお話をうかがいましたが、扁額の「浄安寺」の鳥字は面白かったですね。

 字の中に鳥の姿が隠されているのですが、それと教えてもらわないと見過ごしてしまいます。

4 境内あれこれ

 境内右手にひっそりと建っている観音堂は、明暦年中(1655~1658年)に浄福寺から引き継いだものと言われています。

 堂内には、平安時代後期、仏師・康尚の時代の作風が現れているとされる、欅の一木造りの聖観音菩薩立像が安置されています。

 少年のような顔つきの見目麗しい仏像らしく、年に一度、8月に開扉され、その姿を拝むことができます。

 ご住職のお話を聞くうちに、降り続いていた雨も小やみとなり、最後に境内をもう一回りすると、本堂左手奥に、巨大輪の紅い椿が咲き誇っていました。

 

 

 これは「唐椿」で、平等院塔頭・最勝院の名木の挿し木を育てたものだそうです。

 玄誉徹公上人が平等院からこの地へと至り、お寺の中興の祖となったという寺伝にふさわしい椿ですね。

 久御山町は、あまり観光地というイメージはなく、浄安寺も椿シーズンに取り上げられることもありますが、大挙して人が押しかけるということもないようです。

 椿を見ながらのんびりと時間を過ごせる、椿好きにとっては、幸せな気持ちになれるお寺です。

 

 

久御山町「雙栗神社」の椿林と黒椿

 京都市伏見区南部の淀・向島から久御山町にかけては、山城盆地の底にあたり、かつては、桂川宇治川、木津川の三河川が合流し、流域が網の目状に分岐する低湿地帯が広がり、800ヘクタールにも及んだ遊水池「巨椋池」が存在しました。

 この地域は、時代を遡ると、豊臣秀吉による大規模な築堤工事から始まり、明治から昭和の初めにかけて、治水、衛生、農業振興のための改造、開発が行われ、昭和16年には池の干拓が完了し、今では田園や工場地へと姿を変えています。

 京滋バイパス久御山ジャンクションから東の「巨椋IC」付近は、一面、平坦で広大な田地が広がり、巨椋池の在りし姿を想像させます。

 久御山町は、昭和29年に、池の西側に位置した御牧村と、南側の佐山村が合併して誕生しました。佐山地域は、弥生時代の遺物が出土するなど、早くから農耕が営まれ、平安時代後期以降、水上交通が発展すると、物資流通の拠点の一つとして、経済的に力を蓄えるようになったと考えられています。

 佐山地域の中心に鎮座する雙栗神社の周辺には、今でも多くの寺が残り、藤原時代から鎌倉時代にかけて、薬師如来坐像をはじめとする幾体もの半丈六(四尺)仏が集中して造られるなど、財力を背景に、文化的にも開けた土地であったことがうかがわれます。

 この雙栗神社の社叢には、藪椿の群林が見られるとともに、なかでも、「黒椿」と呼ばれる濃紫色の椿があると知り、探訪に出かけてまいりました。

1 雙栗神社の鮮やかな本殿

 雙栗神社は、延長5年(927年)にまとめられた全国の神社一覧である「延喜式神名帳」に載る古い社で、天安2年(858年)から仁和3年(887年)までの三代にわたる天皇の時代の国史である「三代実録」の貞観元年(859年)の条に見える「雙栗神」であると考えられています。

 ところで、久御山町には、町域外にぽつんと数キロ離れた、飛び地ファン?に知られる場所があります。

 そこは、宇治市と宇治田原町にまたがる山間地にある「三郷山」で、古来、雙栗神社の宮地として、佐山地域の佐古、佐山、林の三郷が共有管理してきました。

 一方、宇治田原町には、雙栗天神社という古社があり、田原郷の氏神が降臨されたという岩山を祀って鎮座していますが、三郷山は、この岩山にほど近く、氏神さまが「雙栗神」であるとすれば、佐山三郷のルーツは、田原郷ではないかと言われています。

 飛び地の謎解きというのも、なかなか面白いですね。

 中世以降は、石清水八幡宮の分霊を祀り、椏本(あてもと)一品八幡宮と呼ばれ、5つの神宮寺が設置されましたが、明治の神仏分離廃仏毀釈の流れの中で、神宮寺は廃止され、雙栗神社の名称に戻りました。

 境内は、L字を倒した形で、西の大鳥居から長い参道が続き、90度に北に折れて、本殿へと向かいます。

 神社を囲むように、府営東佐山団地やUR久御山団地が建ち並んでいるので、神社の西の入口を見つけるのに少し迷うかもしれません。

 誰もいない静かな参道からは、古色蒼然としたお社をイメージしていましたが、目の前に鮮やかな彩色と彫刻に飾られた朱塗りの本殿が現れて、少し驚きました。

 

 室町時代末、明応3年(1494年)頃のもので、重要文化財指定を受けていますが、昭和55~56年にかけて塗替えと根の葺替えが行われ、令和4年度には、再塗替えと金具工事などが施されたばかりなので、往時の荘厳できらびやかな姿を見ることができます。

2 藪椿の群林と黒椿

 この本殿の周りを中心に、多くの椿が林立しており、紅い花を咲かせ、落ち椿が地面を染めています。本殿の朱色が色移りしたようです。

 

 椿たちは、自然のままに育っているので、高木となり、相当の巨樹になっているものも多くあります。

 あいにくの雨でしたが、椿の木肌が濡れると、独特の質感が一層味わい深く感じられましたね。

  

 お目当ての「黒椿」は、本殿裏に立っています。

 思ったよりも細い椿でしたが、ちゃんと表示柱があるので、すぐにわかりました。

 高く伸びている先に数輪咲いているようでしたが、かなり遠目だったので、花形と色合いを間近に見ることはできませんでした。八重咲の黒椿なのか、藪椿の中でも色の濃い選抜種なのかどちらなのでしょうか。

 そばの椿にも、濃い花色をしているものを見かけました。

3 椿と大クスノキ

 社叢にひときわ高く聳え立つのが、御神木のクスノキです。

 樹高30m、幹回り535センチもある巨木で、樹齢は400~500年と推定されています。

 根元には小さなお稲荷さんの祠が祀られています。

 クスノキの巨樹といえば、太い根が地表を這い、凹凸に富む幹というイメージですが、このクスノキは、すっと真っ直ぐな立ち姿が非常に美しいですね。

 「京都の自然200選」(植物部門)に選ばれ、町の天然記念物に指定されています。

 境内に群れて生える椿は、ほとんどが藪椿で、濃い緑に、紅い花が灯のようにうつります。藪椿といっても、色の濃淡、形や大きさも異なり、椿好きには楽しみの多いスポットでおすすめです。

 雙栗神社の近くには、洛南の椿寺として知られる「浄安寺」もあります。

 八幡市の椿名所も含めての椿巡りツアーを組んではいかがでしょうか。















 

 

 

 

 

 

 

 

 

百毫寺「五色椿」を訪ねる~奈良銘椿①

 奈良市の東部、北の春日山、西の高円山の麓に位置する「高畑」は、春日大社の社家町の名残を残す風情ある街並みを楽しめ、新薬師寺や百毫寺など「個性的」な名刹に出会える、散策に好適なエリアです。

 やや山手の高台にある「百毫寺」には、奈良三銘椿の一つとして名高い「五色椿」があります。

 桜もようやく咲き始めた、3月最終週の土曜日、奈良の銘椿を訪ねて、まずは「百毫寺」に行ってきましたのでご紹介します。

1 百毫寺の石段を上ると眼下に広がる奈良のまち

 百毫寺へ行くには、バスの本数も限られているので、車ということになると思いますが、かなり入り組んだ狭い道を進んでいくことになります。

 寺には駐車場がありませんが、門前近くの民間の青空駐車場に停めることができます(1回700円)。

 石段を上がり、初めの門をくぐると、両脇に椿垣の続く石段が100段あまり山門まで続いています。

 見上げると、ところどころに紅い花が、足元には落ち椿がはらり。

 椿の有名な寺らしさに期待が高まります。

 段の一番上近く、右手に大椿が梢を伸ばしています。

 ようやく石段を上がり、おもむろに後ろを振り返ると、奈良の市街がパノラマのように広がっています。思わず感嘆の声を上げました。これはサプライズでしたね。

2 奈良三銘椿の一つ「五色椿」

 境内に入ると、そこかしこに椿の樹々があります。

 まずは、「五色椿」に御対面です。

 この椿は、寛永年間(1624~1645年)に興福寺塔頭喜多院から移されたものとされ、400年の樹齢を誇ります。

 3月の寒さもあり、開花が少し遅いようですが、いくつか花を咲かせてくれていました。

 白地に桃色の縦絞りが入った花、紅い花が見れましたが、咲き進むと、名前の通り、多彩に咲き分けていくのでしょう。

 蕊の一部が花弁化している八重咲で、豪華というよりも、上品な花という感じがしましたね。落ちている椿は、花弁がバラバラになっていませんでしたが、散椿系統ではないのでしょうか。

 根元からの最初の枝分かれのところに空洞が見えるのが気になりましたが、樹勢が衰えているという様子はなかったですね。

 奈良だけでなく、全国レベルに名高い椿だけに、できるだけ永らえてほしいものです。

3 樹齢500年の「白毫椿」

 「五色椿」の隣、一段上に、実に立派な椿の巨木が堂々とした姿を見せています。

 もともと多宝塔が建っていたという場所にあり、「白毫椿」との命名がされています。

 藪椿ですが、花にわずかに白い斑が入るさまを、仏さまの白毫になぞらえて、椿の大家である渡邉武博士が名付けた椿です。

 太く重量感ある幹、横に広がる力感あふれる枝が深い皺を刻み、年季の入った椿独特の「霊力」さえ感じられる存在感ある大椿です。

 樹齢は推定500年、「五色椿」をしのぐ最古参のもので、知名度は「五色椿」に座を譲るものの、「白毫椿」は、名前、樹齢、樹容といい、名椿として屈指のものであると思います。

 確かに白斑が入っています。可愛らしいですね。本当にぴったりのネーミングです。

4 境内の椿たちと仏像

 名づけのある椿たち。

 「八重白椿」

 「五色椿」「白毫椿」と並ぶため目立っていませんが、これもなかなかの巨木です。

 残念ながら、まだ花を見ることができませんでした。

 「緋車椿」

 本堂の左前に据えられた、樹形の整えられた椿です。これもセンスある、いいネーミングです。

 確かに、シンプルですっきりした造りですね。

 ほぼ180度の展望が楽しめますが、いかんせん、訪問日には黄砂が来襲していたということで、遠景はもやがかかってしまいました。残念。

 それにしても、椿の多いこと。それも相当の巨樹があちこちに。

 加えて、「百毫寺」には、平安時代後期から鎌倉時代にかけての作で、重要文化財に指定されている仏像も数多く宝蔵に納められています。

 なかでも、閻魔王とその眷属である司命・司録像と太山王が有名です。

 太山王は、運慶の次男の子と伝わる康円の作、閻魔王一族は康円一派の作とされています。

 司録は、右手に筆をとり、左手に持つ木札に裁きの結果を記す姿で現されますが、この百毫寺の司録像のポーズが一番格好よく決まっていると、私は思っています。

 椿だけでなく、見晴らしを楽しめ、仏像の名品を見ることもできる、百毫寺は、お値打ちなところだと実感しました。

 「子福桜」は咲き終わりでした。

 再度、パノラマを楽しみつつ、石段を下りていきました。


5 鏡神社の椿

 吟松・高畑本店で、天ざるの昼食をとった後、界隈を散歩してきました。

 新薬師寺までは、土塀が似合う静かな小径です。

 新薬師寺の通用門です。

 十二神将は大好きなのですが、今回は、新薬師寺は門前を通るだけにして、隣にある寺の鎮守社である南都鏡神社をお参りしました。

 大きな藪椿が静かに花咲かせていました。

 鎮守の椿として親しまれているのでしょうか。不思議と心惹かれました。

 









































 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

京都府立植物園 第63回「つばき展」

 京都府立植物園は、1924年大正13年)1月1日の開園からちょうど100年を迎え、公立の植物園としては最古の歴史を誇ります。

 園の一番北側のエリアには、「つばき園」が広がり、250品種600本が植栽され、例年3月のお彼岸の頃は、多くの椿が咲きそろい、恒例の「つばき展」も開催され、春が来たことを実感します。

 ところが、今年の「つばき園」は、3月23日、24日の「つばき展」の期間には、ほとんど咲いていないという、異例のこととなっています。

 23日には、園職員の方による「つばき探訪」に参加しましたが、昨夏の異常高温のせいもあるのか、稀に見る花付きの悪さを言っておられましたね。

 それにもかかわらず、今回で63回目を数える「つばき展」には、京の椿の名所から、秘蔵の椿をはじめ、今年も多数の出展があり、花姿を楽しむことができました。

 この時期にあわせて、開花した花を揃えるご苦労に感謝しつつ、「つばき展」の様子と、「つばき探訪」でわずかに開花していた花をお伝えします。

 

1 大徳寺高桐院

 まだ、拝観が再開していないので、この展示が唯一の機会となります。

 第62回「つばき展」では、雪中花と天津乙女の出展でした。

 今回は、「有楽」と「紅一休」。

 「紅一休」の凛と引き締まった姿は魅力的です。青竹に似合いますね。

2 長福寺

 椿ファンにとって、あこがれの寺ですが非公開です。

 光格天皇から下賜の銘椿「紅筆」を見ることができました。紙風船のような柔らかさを持つ可憐な花ですね。

3 大徳寺聚光院

 「聚光院曙」と「宗旦」という、二枚看板です。

 帰路、大徳寺に寄ってみましたが、塀越しに見る限りでは、このニ椿はまだ咲いていない様子でした。

 ちなみに、昨年に撮った「聚光院曙」です。

4 詩仙堂丈山寺

 やはり「丈山椿」は存在感を発揮しています。

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5 桃山の椿

6 大豊神社

7 二条城

8 霊鑑寺

 昨年とはすべて違うヴァリエーションです。さすが品種が多いことがわかりますね。

9 大聖寺

 昨年と同じ品種です。玉兎は何度見ても飽きないですね。

10 市邸

 市邸の椿たち。限られた出展であってもこの数。圧倒されます。

11 京都薬用植物園

12 舞鶴自然文化園

 洋種椿です。

 会場入口で迎えてくれた「明妃」です。

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13 園内つばき探訪

 小雨降る寒い日でしたが、30人近くの熱心な方々が集まり、園職員の方の案内で、つばき探訪に出発しました。

 唯一満開と言ってよかったのが、次の写真のもので、ハルサザンカ系で、おそらく藪椿との交雑種であるということでした。

 花の散り方が、サザンカと椿の両方の落ち方をしています。

 ワビスケ系は、何とか、花を咲かせているものがありました。

 「光源氏」。今年は開花が遅れ、NHKから咲いたら取材に行きますと毎日のように問い合わせがあったものの、結局は、大河ドラマ「光る君へ」での花の紹介が間に合わず、先に撮っていたインタビューコメントだけが流れたと、職員の方が言っておられました。

 まだ、蕾のままの品種も多く見かけましたので、4月を越えてからの方が、つばき探訪にはよいかもしれません。

 少々寂しいので、昨年、同時期のシーンを少し載せておきます。今年とは全然違います。


















 













 

 

横浜市鶴見区「宝蔵院」の源平五色椿

 昨年の大晦日、「かながわの名木100選」に選定されている椿2本のうちの一つ、横浜市鶴見区にある宝蔵院の五色椿を訪れてきました。

 JR鶴見駅西口から、横浜市営バスに乗り約13分、「宝蔵院前」で降車、500mほど歩くと、住宅に囲まれた高台に「宝蔵院」があります。

 

 天文16年(1547年)の創建とされ、天明の頃には水害、また、関東大震災による倒壊などを経て、昭和18年に現地に移転したようです。

 階段を上がると、鎌倉時代のものとされる山門に迎えられます。

 ごく普通の小ぶりな門ですが、獅子と獏の立派な木鼻に目が引かれます。

 木鼻は、建物の強度を高める水平材である「貫」が、柱を貫通して飛び出たところに施した装飾です。

 「貫」の建築手法は、東大寺の再建を果たした重源によって宋から伝えられ、広がったとされているので、木鼻は鎌倉期以降の建築物に見られるもので、時代が下がるにつれて、装飾が手の込んだものになっていきました。

 鎌倉の多くの寺社で、「動物系」の凝った木鼻をよく見かけましたね。www.kyogurashi-neko.com

 さて、この山門をくぐると、本堂の左手、客殿との間に囲われた一角に、大きな椿がありました。

 高さ7m、枝張り6m、胸高周囲2mという、椿としては、かなりの巨木で、樹齢は600年に及ぶのではないかとのこと。

 モルタルによる修復は見られるものの、幹や大枝に目立った損傷もなく、枝葉が旺盛に繁っており、まだまだ寿命を保ちそうな様子でした。

 県の調査報告によると、50年ほど前に、樹勢が弱ってきたので、太根を切って発根を促す措置が効を奏して、元気を取り戻したと記載されています。

 樹の北方10mほどのところに、良質の湧き水があるらしく、それも長寿につながる要素の一つとなっているのかもしれません。


 「五色」の名のとおり、赤、白、ピンク、絞り、ぼかしの5種類に咲き分け、紅白のコントラストの美しさから、「源平」の名を頭に持つということです。

 WEBに載っている花を見ると、蕊が花弁と混じり合って咲いており、いわゆる「牡丹咲」の形状に見えます。

 「五色椿」といえば、京都の地蔵院、法然院、柊野などの名木が頭に浮かびますが、これらは「八重咲」で蕊が中心にまとまっていますし、500年ほど前に朝鮮から持ち帰られた地蔵院の先代の椿の系統のものです。

 宝蔵院の椿は、種別も由来も、この系統とは異なる希少種なのかもしれません。

 600年は伝承かもしれませんが、年月を経た椿独特の質感は、迫力と魅力にあふれています。

 「緑青をふいたような幹」というのは、いい得て妙の表現ですね。雨に濡れるとより鮮やかな色になるのでしょう。

 お寺の移転は80年ほど前のことですから、この椿は、随分以前からここで咲いていたことになります。園芸種なので、樹齢が伝えられているようなものだとすると、室町前期に、この場所に、寺社か屋敷が営まれていたのかもしれませんね。

 例年4月に、客殿2階の大広間から花を愛でる「花まつり」が開かれているようです。

 ちょうど客殿に沿う形で、高く広がる樹形なので、この広間は、間近に、同じ高さの目線に、五色の椿を堪能できる絶好のロケーションとなることでしょう。

 機会があれば、いつか、そのときに来訪したいなと思いながら、宝蔵院を後にしました。

 

 

 

 

 

 

鎌倉の椿巡り⑨~杉本寺と浄妙寺

 鶴岡八幡宮から金沢街道を東に1.5kmほどの、二階堂・浄明寺エリアも、多くの寺社、名所・旧跡に出会えます。鎌倉の椿巡りラストは、杉本寺と浄妙寺です。

 

1 古寺「杉本寺」

 「杉本寺」は、鎌倉で最も古いお寺で、創建は天平6年(734年)にまで遡ります。

 聖武天皇の后である光明皇后の御願により、右大臣藤原房前行基によって建立されたといいますから、大変に由緒のあるお寺です。

 山門(仁王門)です。

 山門から本堂へと続く鎌倉石の石段は、浄智寺の石段と同じく、鎌倉の情緒あふれるシーンとして印象に残るものです。

 幾人が通った後か、窪んだ段々は、波が打ち寄せてくるようにも見えます。

 古びた色合いは、茅葺の本堂ともよくマッチしています。

 山門も茅葺で、苔の味わいがあります。

 本堂の観音堂は、茅葺の古風な仏堂で、現在のものは、延宝6年(1678年)の建立とされています。

 密教天台宗のお寺らしく、本尊を秘仏として、格子戸で囲う内陣と、礼拝の場である外陣とに区分されています。

 行基、円仁、源信という、教科書にゴシック体で載るような名僧がそれぞれ刻んだとされる三体の十一面観音が本尊です。

 この三体の観音様は、文治5年(1189年)11月23日の夜、お堂が炎上したときに、我が身を動かして、大杉の下に避難したとの伝説があります。

 建久2年(1191年)には、源頼朝がお堂を再建し、御三体を堂内の奥に大切に安置したといいます。

 また、不信心な者がお寺の前を乗馬したまま通ると、必ず落馬したことから、別名「下馬観音」とも呼ばれていたそうです。蘭渓道隆行基作の観音様に着ていた袈裟をかけてからは、そのようなこともなくなったと伝わります。

 歴史の古いお寺だけに、ビッグネームの関わったエピソードがふんだんにありますね。

 三体の観音様は、奥に「格納」されているため、格子戸越しに雰囲気を感じることしかできませんでしたが、本尊以外の多くの仏像をごく間近に見ることができました。

 内陣が厳重に護られている一方で、外陣は一般民衆に開かれていたことが、今も、おおらかな拝観に引き継がれているのかもしれません。

 堂内に入って、仏さまと同じ空間に身を置いて、像の質感と陰影をリアルに体感できるのがうれしいですね。

 頼朝が本尊を秘仏とする代わりとして,御前立として寄進した観音様をはじめ、運慶作?とされるものもいくつかありましたが、私は、地元の仏師であろう、宅間法眼作の毘沙門天が気に入りました。

 境内で見つけた椿(サザンカ)たちです。

2 和と洋の浄妙寺

 杉本寺の東、程近くにある「浄妙寺」は、鎌倉五山の第五位に数えられる名刹です。

 文治4年(1188年)に、頼朝の側近で、足利氏二代当主の足利義兼が創建し、七代当主の貞氏(尊氏の父)が中興し、鎌倉幕府滅亡後も、鎌倉府が設置され、足利氏菩提寺の一つとして寺勢を維持したようです。

 戦国の騒乱で衰えたものの、後北条氏徳川家康のバックアップもあり、今に至っています。

 訪れたのが12月30日ということで、門は開かれていましたが、拝観休止となっていたため、境内をぐるりと回るにとどまりました。

 庭園もいい雰囲気です。

 ところどころ、椿がありましたが、まだ蕾は固いようでした。

 ほとんど人のいない境内でしたが、庭園前に置かれたベンチに、外人の女性が、一人静かに読書をされていました。

 旅先で、あくせく各所を回っていた私は、ふと我に返りましたね。

 遠国から来たにもかかわらず、「和」の世界に違和感なく溶け込み、ゆったりとした時間を過ごしている姿は、実にお洒落でした。

 お寺の北側の高台には、洋館とガーデンテラスとがあります。

 この館は、100年ほど前に、貴族院議員の方が邸宅として建てたものですが、イングリッシュガーデンと食事やお茶を楽しめるスペースとして、アレンジして改装し、2000年にオープンしています。

 和と洋、新と旧とがうまくすみ分けながら共存しているのは、刺激的で魅力あるものです。

 後から思えば、あの女性は、洋館の関係の方だったのかもしれませんね。 

 帰りは、白西王母が見送ってくれました。

















 

鎌倉の椿巡り⑧~建長寺と円覚寺

 臨済宗建長寺派大本山建長寺は、誰もが知る鎌倉五山筆頭の禅寺で、建長3年(1251年)、北条時頼の招きにより、蘭渓道隆が開山しました。

 北宋から元の時代の中国の建築様式を伝え、総門から法堂まで、主な伽藍が直線状に連続して並ぶ中国南宋五山と同様の配置としているのは、本家の宋禅を日本に広げようとの意気込みが現れたものといわれます。

 武家政権の強化を図る北条氏は、京都と離れた鎌倉の地において、朝廷と既存宗教の強固な文化・宗教的支配とは別に、武士による独自のイニシアティブをとろうとしました。

 そこで、武士の気風ともフィットした禅宗を擁護し、また、日本に布教のフロンティアの可能性を見た北宋の禅僧にとっても機会到来ということで、双方の思いがうまく組み合って、禅宗が興隆したということですね。

 その基点ともなる建長寺は、度重なる天災、兵火により、伽藍が失われては再建されてきました。

 創建当時の建物は現存しませんが、今も壮大な伽藍が並び、鎌倉第一の風格と歴史の重みを感じさせます。

 入口の総門は、関東大震災で倒壊したため、京都・千本今出川にあった般舟三昧院の正門を移築したものです。

 「三門」です。現存のものは、1775年の再建です。

 正面の唐破風と扁額が特徴ある、入母屋造りの20m近い巨大な門は迫力があります。

 でも、人を威圧し、隔絶する門とは全く違い、一階には扉がなく、寺があらゆる人に開放されていることを示すとされています。

 重量感あふれる上階は、地震に弱そうにも見えますが、がっしりとした木組みに支えられており、関東大震災にも見事に耐え残っています。

   

 国宝の梵鐘です。

 

 仏殿に至る参道左手に、ビャクシンの堂々とした樹姿が見えます。

 樹高13m、胸高6.5mの巨木で、蘭渓道隆南宋から携えてきた種子をまいたものと伝わっています。

 開山時から数えると約770年の樹齢ということで、寺の移り変わりとともに、幾多の名僧や名将を見てきた、生きる歴史とでもいうべき銘木ですね。

 仏殿は、関東大震災で倒壊し、「悲惨ノ状ヲ呈ス」と文部省の記録にありますが、無事再建されました。


 仏殿の後方には、大きな法堂が。

 壮麗さに思わず目を奪われる、方丈の「唐門」。

 仏殿と同じく、増上寺にあった徳川秀忠夫人の崇源院(お江の方)の霊屋を移したもの。

 震災前の仏殿も、「富麗ナル色彩及ビ金具ノ装飾ヲ施セリ」と記されており、江戸期には、仏殿と唐門により、禅寺ではありながら、きらびやかな雰囲気も加わっていたのでしょうね。

 方丈の裏に広がる庭園です。

 建長寺に来たからには、「半僧坊」の絶景を見ない手はありません。

 方丈の裏手から、山へと連なる階段道を進みました。

 たどり着いた「富士見台」。

 ぼんやりとはしていたものの、富士山を臨むことができました。

 この先、急な階段を上るにつれて、視界が広がり、素晴らしい景色を楽しむことができます。

 眼下には、樹々の合間に、建長寺の伽藍が一望でき、遠方には、鎌倉の街を越えて、はるかに相模灘の水平線が見渡せます。

 この雄大な光景をバックに、大きな藪椿がぽつりと紅い花を咲かせていました。

 やや高所恐怖症気味の私ですが、椿越しのパノラマを見ると、足がすくみながらも、上ってよかったなと感動しました。

 

 建長寺を後にして、円覚寺へ。

 弘安5年(1282年)、執権北条時宗は、国家の鎮護と蒙古襲来で命を落とした者を弔うために、無学祖元を招き、円覚寺を建立しました。

 日本人だけでなく、元人、高麗人を問わず追悼する懐の深さは、あらゆる衆生を救う仏さまに似つかわしいことだと思いますね。

 建長寺の三門ほどではありませんが、円覚寺の三門もなかなかの存在感です。

 12月30日、快晴の穏やかな日でした。

 仏殿と、その手前の無学祖元が植えたといわれるビャクシンです。

 仏殿の無学祖元坐像。

 頂相彫刻は、師の御姿を写した像として、礼拝し、尊ぶことから、リアルな風貌を伝えているとされます。

 開山堂、瑞泉寺の坐像のクオリティには及びませんが、個性的な顔立ちは共通しています。

 方丈に入る門です。

 辰年にふさわしい、扉の龍の彫り物です。

 御存じ、国宝「舎利殿」。

 お正月には、特別公開されたようです。残念。

 円覚寺では、椿を見ることはできませんでしたが、塔頭では、わずかながら椿の姿を見かけました。

 最奥にある塔頭で、夢窓疎石の塔所である「黄梅院」です。

 有楽椿が迎えてくれました。

 今頃は、梅もちらほらと咲き始めているかもしれません。

 北条時宗の廟所である「佛日庵」です。

 最後に、国宝の洪鐘を見学しました。

 関東一大きな鐘だそうです。参拝者は撞けなかったようですが、翌日の大晦日に荘厳な音を響かせていたようです。

 お正月の飾りの準備ですね。一年が経つのが早いこと。