鎌倉の椿巡り⑦~化粧坂から、源氏山、葛原岡神社を経て浄智寺へ 

1 化粧坂

 京の都への出入口は、「京の七口」として知られていますが、鎌倉にも同様に「鎌倉七口」と呼ばれる出入口があります。

 鎌倉を囲む山の尾根を切り下げて造られた「切通」は、人馬や物資の流通ルートであるとともに、軍事上も重要な防衛拠点となりました。

 このため鎌倉が決戦場となれば、「切通」は激戦地となり、「太平記」にも新田義貞が三つの口から、鎌倉へと怒涛の如く押し寄せた際の決死の攻防が描かれています。

 扇ガ谷から武蔵国へと結ぶ口である「化粧坂」は、新田義貞が自ら突破を図ったものの、守将・金沢貞将らの奮戦により最後まで陥落しなかったと伝えられています。

 せっかく鎌倉に来たからには、「切通」の一つは見ておきたいと思い、「化粧坂」を抜け、源氏山、葛原岡神社を経由して、浄智寺へと至る「葛原岡・大仏ハイキングコース」を歩いてまいりました。

 「化粧坂」は、鎌倉七口の中でも、古の様相を残していると言われます。

 切通といえば、道の両側が切り立っているイメージがありますが、「化粧坂」は谷側は開けています。

 急勾配の坂に設えられた石段は、足掛かりとなる部分がすり減って深いくぼみができ、いかにも古そうな味を出しています。

 鎌倉のつわものたちが、ここを先途と戦ったことを考えると、ただの坂とは思えなかったですね。

 坂の上は、平坦な岡地となり、源氏山の公園もすぐそばにあります。

 サザンカの咲く公園に、頼朝公の像を見て、葛原岡神社へと足を延ばしました。

 「葛原岡神社」への途中に、後醍醐天皇の倒幕活動を支えた側近で、建武の新政を見ることなく、「化粧坂」上で斬罪となった日野俊基のお墓があります。

2 葛原岡神社のサザンカと椿

 元日の初詣を待つ大晦日の葛原岡神社。

 参道両側のサザンカが、赤い提灯、紅白幕、朱文字と綺麗にフィットしていました。

 鳥居前に見つけた椿。

 この後、ハイキングコースにしたがって山中に入っていきましたが、これが結構な山道のうえ、雨上がりで滑りやすく、少し後悔しつつ、汗ばみながら峠越えをすることになりました。

 途中、「天柱峰」と記された碑がありましたが、浄智寺が最も栄えていたころは、その付近までもテリトリーとしており、僧房の跡も発掘されているようです。

 半時間くらいの「ハイキング」で、ようやく人家が見えるようになったところで、周囲がガサガサと騒がしくなり、甲高い鳴き声とともに小動物の集団が現れました。

 これが、困りものとなっていると聞く「台湾リス」ですね。子猫くらいの大きさがあります。

 警戒心が強いと思っていたので、こんな至近距離になっても逃げようとしないので、こちらも驚きました。

 人を見て危険かどうかがわかるのか、案外、学習能力が高いのかもしれません。 

3 浄智寺

 ようやく「浄智寺」に到着。

 鎌倉五山第四位の名刹です。「甘露の井」を左手に見て、総門へと。

 総門から山門へは、苔むして古色蒼然とした鎌倉石の石段が続きます。

 風情があり、撮影スポットして人気の高いところです。

 「浄智寺」は、北条時頼の三男で、時宗を兄に持つ宗政の菩提を弔うために開創されました。

 宗政は、有能な人物であったらしく、時宗を支える存在として期待され、建治3年(1277年)には、元軍の再度の来襲に備え、警護を固めるため、博多を管轄する筑後国の守護に任命されています。

 しかし、宗政はこれからという29歳で逝去。

 浄智寺の開山は、時宗の痛嘆と慰霊の思いの深さを示すものなのでしょう。

 鐘楼門である山門は、中国風の意匠が異彩を放っています。

 関東大震災で、浄智寺も大被害を受け、鐘楼門も倒壊しましたが、現在の門は、2007年に復元したようです。

 「曇華殿」に安置されている仏様三体は、阿弥陀如来、釈迦如来弥勒如来で、過去・現在・未来の三世で衆生をお救いいただきたいという願いを体現したものということです。

 「曇華殿」の裏側にひっそりと祀られている観音様です。

 曇華殿の仏さまとは距離がありますが、こちらの観音様は、お近くで、優美な姿を見ることができます。

 「浄智寺」も鎌倉らしく、山に面するところには、やぐらが沢山出てきました。

 平行と垂直の構図。

 布袋さんのやぐらを彩る椿。

 境内には、ビャクシンやコウヤマキなどの巨木が散在し、様々な花木が植えられ、竹林や手入れされた庭園など、お堂の回りは樹々と緑でいっぱいで、気持ちよかったですね。

 これで、鎌倉五山は一通り訪れることができ、最後に東慶寺にお参りして、鎌倉を後にしました。